八島 (能) (Yashima (Noh play))
能楽における八島(やしま)は、平家物語に取材した作品。
成立は室町時代。
作者は世阿弥。
複式夢幻能、修羅能の名作といわれる。
作品名は世阿弥の申楽談義にみえ、『糺河原勧進猿楽記』に寛正5年(1464年)上演の記録があるなど、古くから頻繁に上演されてきた。
平家物語の巻十一「弓流し」などから取材され、屋島の戦いにおける源義経主従の活躍と修羅道におちた武将の苦しみが流麗な文体で描かれている。
作品構成
作品は典型的な複式夢幻能の形式をとり、旅の僧が漁師にであう前段、漁師がきえた後、僧がその不思議を土地の住人にたずねる狂言部分、主人公義経が生前の姿であらわれる後段の三部構成をとる。
(注以下弱い強調<通常は斜体で表示される>でしめした部分は、謡曲本文(ほんもん)の引用である。)
(なお引用にあたってはおもに参考文献にあげた『謡曲大観』を参照しているが、漢字変換、句読点のうちかた等は、執筆者独自のものである。)
(また現代語訳は執筆者が行った。)
前段
能ワキ 都の僧 (ワキツレ 従僧二人)
前能シテ 漁師 (ツレ 漁夫)
都の僧が旅の途中讃岐屋島の浦をとおりかかり、塩屋(塩を焼く海人の家)に一夜の宿をさだめようとする。
そこに年老いた漁師がお供をつれてかえってくる。
漁師は都の僧にむかって、そのむかしこの地でおこった源平合戦の物語をはじめる。
元暦元年三月十八日(実際に戦いのあった歴史的日付は文治元年2月)海に浮かぶ平氏の軍団と、それを攻める源氏義経軍との合戦である。
源氏の三保谷四郎と平氏の平景清との組討(「しころびき」という)の模様や、義経をまもって敵の矢にあたってたおれた腹心佐藤継信、その矢を射た平教経の愛童菊王の死など、漁師があまりにも詳しく語った。
そこで、都の僧が不審を感ずると、漁師は以下のように言って消えうせた。
「潮のおつる暁ならば修羅の時になるべし(潮のひくあけがたに戦いの時になるだろう)。」
「その時はわが名なのらん(その時はわが名を名のろう)。」
「(中略)よしつねのうきよの夢ばしさましたまふなよ(よし、常の、この世の夢をさましてくれるな)。」
間狂言
ワキ 都の僧
アイ 所の者
そこへ塩屋の本当のあるじ(所の者=この場所の住人)が見回りにやってくる。
僧が「漁師の許可を得てここを借りているのだ」というと、この塩屋は自分のものだから、地元のものが勝手に人をとめるはずはない、僧がうそをいっているのではないかと疑う。
都の僧は、いましがたおこったことについて話し、所の者に源平両家の合戦について知っているかと問う。
所の者はここで昔おこなわれた戦いの話をしてきかせる(前段の漁師の話と同内容、ただし間狂言は前段のシテが語った韻文を口語体で語るのが能の常道である)。
都の僧は礼をいい、さきほどの漁師はなにものだったのだろうかと問うと、所の者は義経の霊ではないかと答え、宿を用意するといって退場する。
後段
ワキ 都の僧
後シテ 義経
都の僧がこの場で仮寝していると、甲冑に身をかためた体(てい)(修羅能では厚板、法被、半切という装束でその体をあらわす)で義経の幽霊があらわれる。
「船と陸(くが)との合戦の道 忘れえぬ(陸と海との合戦を忘れられない)」と妄執をのべ、この地で弓をおとし、敵にとられじと馬を海にのりいれて、命をかけて弓をとりかえしたことなどを思い出して語る。
こうして気分がたかまり、教経との戦いの再現など修羅の苦しみをあらわす舞をまう。
「かたきとみえしは群れゐるかもめ、ときの声ときこえしは浦風なりけり (敵とみえたのは群れいるかもめ、鬨の声ときこえたのは高松の浦を吹く風だった)。」
「高松の浦風なりけり、高松の朝嵐とぞなりにける(その風は激しく、朝の嵐となった)。」
この謡曲と共に、都の僧の夢がさめ能はおわる。